――テレビでは北朝鮮の拉致問題のニュースが絶えなかった。剛と凜にとっては、世間の冷たい目を想像するためにある茨のような報道だ。「相も変わらず嫌なニュースばかりだね」と言い合った。
剛は、勉強も、必死で取り組んだ。独りで参考書や問題集に立ち向かっている無味乾燥な時間――孤独が、失って落ちる地獄だと思い込むのに、剛には丁度良かったのだ。
――十二月に入って、学業も軌道に乗り始めた頃。
剛の携帯電話が鳴った――十日、火曜日の放課後。太田からだ。太田から電話がくるなんて珍しいと思い、剛は受電する。
「悪い、剛。捕まった。剛の元カノだ。男もいる。剛を呼び出せって言われた」
「恵か?」
「ああ、そう言っていた。すまない、抵抗したのだが及ばなかった」
「どこにいる? 行けば明弘は解放されるのか?」
「浦和駅東口だ」
剛は、まだ校内にいたから即座に現場に向かった。自転車で十五分の距離を猛烈な速度で移動した。剛が浦和駅に着くと、太田は、説明した――学校帰りに喧嘩を売られて、対抗したら殴打されたという。それが恵と連れの男だ。
恵は、得意げに説明する。恵は、調べ上げていた。凜のことも、友達の太田のことも。今日は、どちらかと遭遇する可能性の高いという理由で、浦和駅で張り込んでいた。剛と凜がデートで来るかもしれない、凜が一人の下校中に通過するかもしれない、太田も下校中にやってくるかもしれない。凜と太田は浦和駅が自宅の最寄りだ。
「出来ればデート中を襲撃したかったが仕方がない。今日が何の日か知っているか?」
恵は悪びれる様子もない。
剛は、凜との関係をきちんと説明しようと思った。だから丁寧に一問一答に付き合う。
「大湯祭だ」
「一昨年行った時、私と腕組んで歩いたよな。あれはなんだ?」
「恵が彼女だったからだ」
恵は、まるでわさびが鼻につんと来たような顔をした。
「凜という女はクリスチャンなのだろ? 大湯祭に行かない。剛は大湯祭が大好きだろう。小四まで大宮に住んでいたからな。私は、小五になって東小に転校した剛のこと、同じクラスでずっといいなと思っていたのだ。中三になって、勇気を出して告白したら……。剛は何て言った?」
「俺も前から好きだった」
「剛。今日だけ昔に戻れ」
太田は、斟酌するような顔で、
「剛。すまないが、俺は下校中にこんな目に遭うのはもう嫌だ。また来るようなら警察を頼る」
と言う。
恵は、「お前、拉致されるぞ!」と言い出した。
剛は、「その手のやり取りは学校で散々やった後だ」と言おうと思ったが、恵の剣幕に押された。恵は続けた。
「凜の親族に北朝鮮に永住帰国した奴はいないか? そいつが手紙を書いたから受け取ってくれと言って、在日の家に上がり込むのがスパイの常套手段だ。拉致被害に遭っても日本の警察は犯人逮捕や家宅捜索といった強制捜査は一切しない。被害者が、『北朝鮮に憧れていた』とか突拍子もない理由で、自分の意思で渡航した可能性があるからだ」
恵の声は震えていた。
「剛。在日の恋人のいるお前なんてうってつけじゃないか! 警察はきっと『凜の故郷を一目見たかったのだろう』と言って、お前を一切探さないぞ!」
恵は目に涙を浮かべながら、さらに叫んだ。
「『陳情』ってな! 杓子定規な話しぶりの役人の所へ『助けてください』と何度も足を運ぶのだよ、拉致被害者の家族は! 剛の家もそうなるのだよ! 別れろよ! 拉致は究極の人権侵害だなんてコメントがあったけどな! 拉致が人権侵害なら凜の暮らしはなんだ? 何一つ失っていないだろうが!」
恵は泣いていた。大粒の涙を流していた。
「剛にもしものことがあっても嫌だ! 剛が綺麗事で終わらせる奴になるのも嫌だ! でも私に義理立てして帰って来るなら別だ! だから今日は私の恋人になれ!」
「それに……氷川さんが守ってくれるように! な! 私が柏手を打ってやるから!」
――俺は薄情だ。きっと、物凄く。
剛は、涙を流す恵を、今度は自分の意思で抱き寄せた。そうすることを、誰に命じられるでもなく、善悪も判断せず。恵の気持ちには答えられない――それでも剛は、恵に「お祭りに行こう」と言った。
「恵。俺は嘘をついたまま時を貪っていた。今は、凜が大好きだ」
「結婚しろ」
「結婚?」
「私と結婚するか!」
――そして、恵と氷川神社にいった。恵から、この二年間のことを、何もかも聞かされた。付き合った一年と、別れてからの一年を。
「剛は勉強できるのに、私と同じ匂いがした。けれど剛は、そんな自分を知らずに浅薄なところがある。やっぱり勉強のできる奴だと思って嫌だったけれど、私はお前の匂いが恋しかったぞ」
剛は、恵の感情を飲み干していくことを厭わなかった――何一つ、お返しなどできないと思いつつ。
恵は、中学時代の同級生の話をよくする。
この日、恵が口にする友人の名前はとにかく中学時代の旧友が多かった。それは、共通の知人の話題をしているからかもしれないが――剛は、熱量を持って過去を振り返ることが出来ず、会話に少しついていけなかった。
剛は、中学三年生の頃の教室を徒に思い出して心を癒そうとは思わない――前に進みたいと思う気持ちがあるからだ。恵は、それを失っているのだろうか。
「恵は、高校を卒業したらどうするのか? 進路はもう決めたのか?」
「私は就職する。今、アルバイトしているスーパーにそのまま就職する。声を掛けて貰えたのだ」
出店の屋台で一緒に戯れているとき、剛は、何もかも思い出した。恵は劣等感がない。かといって、人の座りたい椅子に座るような人でもない。互いの匂いを嗅いで付き合っていた時間が蘇る――俺達は確かに惹かれ合い、互いを求めた。
「恵。俺は、物に喩えて言うなら三角定規のようだ」
「ん? 私がそんなことを言ったか?」
「言っていない。俺がそう思っただけだ」
「剛の、そういう所が嫌いではなかったぞ。凜もそうなのだろう。三角定規ってなんだよ。あれか、三辺の長さがどうとか。剛が、計算得意だったヤツ」
「それは三平方の定理だ。懐かしいな。あんな問題が解ければ優秀だと言われた頃が」
恵は、ムスッとして、「勉強の話をするな」と言った。
――帰りの電車の中でも、ずっと話していた。恵は、高校を卒業したら就職するという。思い出より、将来の話をするようになって、剛は「恵に会えてよかったよ」と呟く。
「凜に電話しろ、呼び出せよ」
「どうしてだ?」
「まだわかんないのかよ!」
「許してくれ。恵が思い描くようには、たぶんならない」
「じゃあ神社で結婚したのは私だ! で、今日で離婚な! 明日から凜を大切にしろ!」
冗談のような恵の言葉が、剛の胸を掻きむしった。
剛は、恵と、まるでお別れの時を刻むように言葉を交わす。
「すまない、恵。次の北浦和駅で、恵が降りたら、俺達はもう会うことはない。俺は、凜と支え合う。俺は努力した。凜は、受け取るだけでなく、俺の中まで入って努力を認めた」
剛は、語った――十年、二十年経って、人や社会の考え方が変わって、俺と凜の関係を見る目が変わったとして――それは人の当たり前の感情、優しさ、思いやり、感謝の気持ちが、何にも覆われず曝け出されたからかもしれない。けれど相変わらず差別や偏見で覆われているだけかもしれない。別の国の人、別の民族の人達を標的とした心無い言葉に、取って代わられただけだとしたら、俺は喜べない。そこには拉致問題然り、悲しいニュースがあるかもしれないけれど……。
「けれど、恵、聞いてくれ。罪を認めることで、道が開ける。第二次世界大戦然り、差別発言然り、拉致問題然り」
恵は「戦争が憎いか?」と尋ねる。
剛は「そうだよ」と答える。
「戦争が憎いなんて当たり前のことだ。誰も戦争に行きたくない。昔の人だよ、戦争をしたのは。剛は、間違った国の代わりに償うのだな。殊勝なことだ。そのスケールのまま大人になったらいい。私なんて、お門違いだったような人物になってしまえばいいだろう。だから……」
「だから、なんだ?」
まるで季節外れの黒いアゲハ蝶のような、剛と恵は、最後にゆっくりと羽根を閉じるように、互いの顔を重ねた。本当にお別れなのは言うまでもない。
「私は私のために手放す」
恵は、そう言うと北浦和駅で降りた。
剛は自転車を止めた浦和駅まで乗った。恵が置いて行った体温を隣に座らせたまま、一駅だけ電車に乗っていた。
「俺は決めた。凜とどこまでも付き合い切る。凜が憎むときは俺も憎む。凜が祈るときは俺も祈る」
――恵と会った翌日。別所沼公園で、口実などなくても会ってくれる凜の声を聞いた――何事もなかったかのように受け入れる凜を見て、自分を責めた。
「クリスマスはイブに会いたいと言ったのを覚えているか?」
凜は、はにかんだ笑いで答える。
「覚えているよ」
「あれは訂正する。去年と同じがいい。一緒に凜のお爺ちゃんに祈ろう」
「どうして?」
「天国にいる凜のお爺ちゃんに、挨拶させてほしい。……将来は、凜のお父さんみたいにITに進もうかな。凜を守る人を見習って、俺も大人になる」
剛は、照れくさそうに打ち明けた。大学生になる時には、将来の野望くらい手に持って前に進もうと。それは黒川や栗山が教えてくれたものだ。
「子どものうちから、凜という運命の人に出会った俺は、怖いくらい幸福なのだ。幸せを、まず凜と、そして人と、分け合うような人物になりたい」
今度は凜が照れくさそうにした。
「去年、クリスマスに一緒に教会に行ったことを楓に言ったら、『教会に行ったの? えーっ!』と驚かれたよ」
「楓って?」
「剛が最初に口説いた友達だよ。背の高い」
凜は自分で言って、はっはっはと笑った。
「ああ。ずっと不安だったな。私は可愛い、可愛いって言い聞かせてここまで来た。剛は可愛い子を見る目で私を見るから頑張れた。あの頃が懐かしいな」
「よせよ。そういうことを思い出すの」
「楓には、とても力になって貰えた。クラスの人に『コリアンです』と打ち明ける勇気を持てたのは、楓のおかげだったな。同じクラスの仲間から差別されると思っていないでと言われて、助けて貰えたの」
「そうだったのか。俺達は、まだ一年だ。頑張ろうぜ」
剛が言い終わると、凜はポンと軽く剛の頭を叩いた。
剛は、無言で凜の肩を抱いた。
重なる胸が呼吸する。
「剛といると、何も怖くないのよ」
――剛はそのまま全身全霊の祈りを捧げた――こんな日を何度でも繰り返して、俺達は未来へ行く。
凜のお爺さん
園田剛です
日本が戦争をする時代が終わったことを証明させてください
世界で戦争がなくなるように努力することを認めてください
剛は、教会の鐘の音のような凜の心音を聴き、凜の微笑みを百万回数える未来を祈った。
――未来に連れて行ける人を、たった一人、剛は選んだ。
剛の願いは虚しく、二〇〇三年三月にイラク戦争が起きる。日本では、拉致問題の解決に乗り出した権力が、今度は戦争を肯定して見せた――世界は戦争をやめない。地球の何処かで絶えず起きている争いを、人類がついに放棄する瞬間を、共に見届けることができたら。
二人は、その後も混沌とする社会変動のなかで沈黙を選んだ。「沈黙とは、既に排除だ」という考え方を、剛は肯定する。それでも、互いの愛情を守る道を歩んで、沈黙していた。外国人管理制度、ヘイトスピーチ、フェイクニュース、そういったものに対して沈黙を貫いて自分達を守った。
剛は、天を仰ぐ――まるで青空に貼られたようなクルディスタンの国旗が見事だ。
「そうだよな、お前らだって信じる国旗があるよな。そのうえで、日本列島に住む人達は皆、日本人も外国人も、同じであるべきなのだ。意思疎通のできる者同士でコミュニティが出来ても、そこに国籍を貼り付けて日本と分離すべきではない。狭い意味の日本――日本人しかいない日本を、日本の中に作るべきではない。凜のお爺ちゃんと約束したからな、凜を守ることも、狭い意味の日本を終わらせて日本列島をサラダボウルにすることも」
剛は、踊る朱里を見て思った――剛は「俺は日本人です」と、ことさらそんな言葉を話そうとは思わない。凜の一家から見たら間違いなく日本人であることを、あえて強調しようとは思わない。しかし偽ることの許されない国籍である。日頃の生活の中でその恩恵を受けるプロフィールに違いない。そして朱里に至っては「私は日本人です」と言う。ただし、それらは凜への裏切りではない。たとえば良心は自由であるべきだ、そのうえで親とは教育する立場だ――学校で国旗や国歌を「敬え」と言われて、「いいえ」と言わされる不自由なく育てたかった。それが俺の独善とエゴだとしても――俺は、そういう答えになる男だ。
剛は「朱里、正解」と言って、シャッターを切った。
【参考文献】
『パチンコ 上』 ミン・ジン・リー (著) 池田 真紀子 (翻訳) 文藝春秋
『パチンコ 下』 ミン・ジン・リー (著) 池田 真紀子 (翻訳) 文藝春秋
『在日コリアンを知るQ&A: 多文化共生への五十五のヒント』 郭 辰雄 (著 編集) 川瀬 俊治 (著 編集) 解放出版社
『アメリカ人宣教師と朝鮮の近代: ミッションスクールの生成と植民地下の葛藤』 李 省展 (著) 社会評論社
『災害と外国人犯罪流言―関東大震災から東日本大震災まで』郭基煥(著) 松籟社
『路上の信仰: 韓国民主化闘争を闘った一牧師の回想』朴 炯圭 (著), 山田 貞夫 (翻訳) 新教出版社
『まんが朝鮮の歴史 十一 朝鮮両班体制の崩壊』 安宇植(翻訳)趙顕祐絵(文)李宰(絵)ポプラ社
『まんが朝鮮の歴史 十二 帝国主義の侵略と近代化への道』 安宇植(翻訳)金成龍(文)李宰(絵)ポプラ社
『まんが朝鮮の歴史 十六 日本の軍国主義体制と独立の準備』 安宇植(翻訳)崔賢淑(文)李宰(絵)ポプラ社
『西洋と朝鮮 異文化の出会いと格闘の歴史』姜在彦 (著) 朝日新聞社
『韓国近現代史 一九〇五年から現代まで』池明観 (著) 明石書店
『植民地朝鮮の宗教と学知: 帝国日本の眼差しの構築』川瀬 貴也 (著) 青弓社
『北東アジアの歴史と朝鮮半島』吉田光男 (著) 放送大学教育振興会
『わかりやすい韓国の歴史 (世界の教科書シリーズ)』三橋ひさ子 (翻訳) 明石書店
『韓国の歴史を知るための六十六章 エリア・スタディーズ』金 両基 (編集) 明石書店
『植民地朝鮮における日本の同化政策 一九一〇―一九四五年』マーク・カプリオ (著) 福井昌子 (翻訳) CUON
『めぐみ、お母さんがきっと助けてあげる』横田 早紀江 (著) 草思社
『これでもシラを切るのか北朝鮮』石高 健次 (著) 幻冬舎
『良心の自由と子どもたち』西原 博史 (著) 岩波書店
『いじめ・レイシズムを乗り越える「道徳」教育』渡辺 雅之 (著) 高文研
「ヘイトスピーチと「傷つきやすさ」の社会学」塩原良和(著)オピニオン
『ネットと愛国』安田浩一 (著) 講談社
「道徳教育を考える」汐見稔幸(著)西日本新聞二〇一三年九月二十四日
『私には浅田先生がいた』康玲子 (著) 三一書房
『わたしもじだいのいちぶです 川崎桜本・ハルモニたちがつづった生活史』康潤伊 (著・ 編集) 鈴木宏子 (著・ 編集) 丹野清人 (著・編集) 日本評論社
『在日コリアンの一〇〇年: 日本と朝鮮半島-歴史の節目に立って 過去、現在、そして未来へ』コリア人権生活協会 (編集) クリエイツかもがわ