――九月になると日朝関係で政治が動いた。日朝首脳会談が行われて、拉致疑惑は疑惑に留まらず、北朝鮮側が事実を認めた。担任の教諭は「それでも、園田がしているのは素敵なことだぞ」と言って、剛を励ました。
剛は、凜と会っている時は、拉致問題の話題は一切しなかった。まるでそこだけ絶縁体が貼られて電流が通らない回路のように、互いに口にすることを避けた。
同級生は「剛は埼玉大学工学部に腹を括った」と、むしろそちらの件で「見習いたい」という空気だ。
「俺は一浪してでも東北大学に行きたい」
「まだ筑波大学を諦めたくない。来年は腹を括っているかもしれない」
「俺は明治大学に決めた。園田君も頑張って」
一年生の頃の自由な雰囲気が、徐々に大学受験に染まっていくのを感じた。
同級生に太田明弘がいた。太田も応用化学科を受けると言って、教室でよく一緒に話した――成績が似通っていたから余計に親しくなった。お互い、夏頃から奮起した仲だ――十月になる頃には放課後教室に残って一緒に勉強する日もあった。
「剛は尊敬に値する。俺は、ボアが好きなのだ。韓国人歌手のボア。小学生の頃から、ああいう顔立ちの子が好きだ」
「明弘みたいな奴もいるのだな。凜は別に歌手でも何でもない」
剛は、太田と話していると風に吹かれているようで心地よかった。
「剛は、差別と戦いたいのだな。俺はボアをそういう目で見ることができない」
「ボアは音楽というタッチポイントで人と接しているからそれでいいのではないか。俺は、一年生の頃、同級生に『剛のしていることは人権活動ではない』とことさら言われて、すごく嫌だったぞ。そりゃ確かに人権活動ではない」
「『そうです』でいいだろう。俺がボアを聴くことも人権活動ではない」
「だから、ボアは音楽というタッチポイントだから、それでいいのだろうって」
太田は笑って、
「未来へ行こう」
と剛の肩を叩いた。
「でも、一目見てみたいな。剛の恋人はどんな子だろうな」
太田は遠慮なく、「写真に撮りたい」と言う。
剛は少し悩んだが……。
「凜が構わないと言ったら、会ってもいいぞ」
剛は、放課後だったから、凜に電話をした。
「今日、俺の友達も入れて三人で会っていいか?」
電話口の凜の声が、思ったより明るかった。
もしかすると嫌がるかと思ったから、意外だった。
凜は、「剛の友達ならいいよ」と言うから、その日は北浦和駅前で会った。
凜は、太田を見るなりクスッと笑った。
「ミュージシャンみたいな人だね! 凜って呼んでね!」
「凜ちゃんは、日本の歌は好きなの?」
「キンキキッズが好きだよ」
「そうなのか。コリアンは日本の歌が好きな子ばかりではないと習ったけれど」
剛は、慌てて「あんまり遠慮なく話すな」と太田を止める。
「いいよ。剛が言っていたけれど、太田君も応用化学科を受けるのでしょ」
凜は笑っていた。
太田は鞄からカメラを取り出す。
「笑顔がいいね!」
太田は、凜と剛のツーショット写真をカメラに収めた。
「いいな! とても幸せそうに撮れたぞ!」
太田は、迷いもなく、
「現像したら、あげるから。剛に二枚渡すぞ」
と言う。
凜は、クスクスと笑う。
剛は「用が済んだのなら帰れ!」と冗談のように言う。
――そのまま三人で話して、北浦和公園を歩いた。
「友達がいるのもいいね!」
凜は嬉しそうに、何度目かの北浦和公園を歩く。
「ねえ。紅葉した頃に、もう一度、三人で会おうよ!」
凜は、初対面の太田が気に入った様子だ。
凜は、やきもきする剛と腕を組んで「剛は恋人だからね!」とはしゃぐ。
太田は、もう一枚、撮影した。
「剛も、凜ちゃんも、もっと沢山の人と会えたらいいね。日本人と在日コリアンのカップルですと言って。大勢の人を勇気づけられると思うよ。無神経で勝手なことを言っていたらゴメンね」
「なんだよ、急に」
剛は、まだやきもきする気持ちがあったから、少し棘のある口調になった。
太田は、「俺、応援する」と言って、最後にもう一枚撮影した。
「凜ちゃんのことが大事なのだな。剛のように大人の階段を上る奴がいるのだな。俺は、なんとなく大学生になれたらいいやと思う。剛も、そういう奴の匂いがするけれど、凜ちゃんに出会ったのだな」
剛は、太田が一切悩んでいない様子なのが気になった――「在日コリアンをどう思う?」と、剛は拙速に質問をした。太田が馴れ馴れしいなと感じたから。
太田はジッと剛を見て、カメラを鞄にしまう。
「俺に悪気はないよ。剛は真剣に悩んでいる」
「なんだよ『悪気はない』って?」
「二人の時間を奪ったかな。さては、剛は恋人の距離でずっと悩んでいるな」
「距離?」
「なんでもかんでも恋人という責任感で引き受けるべきではないだろう」
「そんなはずないだろう。恋人は恋人でしかない」
剛は、まるで意味がわからなかった。
太田は、少し怪訝な顔をして「よくやって来られたな」と言った。
「凜ちゃん。剛と別れないほうがいい」
凜は「どうしたの?」と尋ねる。
太田は「帰るわ。お二人さんで続きをしていてください」と急に他人行儀になって、帰って行った。
「変なの。太田君は凄くいい人だと思ったよ」
残された二人は、しばらく北浦和公園で佇んでいた。
「明弘は、何も考えていないほうが上手くいくと言いたかった?」
剛は率直に尋ねた。
凜は、俯いて、「いいえ。そんなはずない。大丈夫だよ。剛は、太田君にやきもちを焼いたの?」と尋ね返す。
「少し」
「困ったな」
凜はクスッと笑って、それ以上は言わなかった。
そして、またいつもの二人に戻っていった。
――その後、現像した写真を太田から受け取った。教室で、太田は相変わらず勉強の話が中心だったが、この時はまた凜の話を少しした。太田は「凜は、よく笑う子だ」と言って、写真を手渡す。
太田から改めて言われた。
「女の子に『着かず、離れず』は、いまに自分の背中を知らされる」
意味深な太田の言葉だが、太田はこれ以上詳細に意味を言わない。
――その後、違うクラスになった田中とも話す機会があった。廊下でばったり遭遇した時に、少し話し込んだ。田中は、あれから彼女が二回切り替わって、相変わらず広く浅く人と交流しているようだった。
「俺は正直、続くと思わなかったよ。頑張って彼氏やっているね」
田中は、交際開始からもうすぐ一年が経つ剛に、労いの言葉を送る。
剛は、二月の教室での一幕が思い出される。
「社会問題じゃないからさ」
「いいや、俺らがグループに誘った人で、彼女が出来た人も何人かいたけれど、続かない人が多いのだよ。『合コンという仕組みが、やっぱり高校生には早いのだろう』って親にも言われた」
「俺達、出会えてよかったよ。瑞樹には感謝しているから、おかしいとか、間違っているとか、勘弁してくれ」
田中は、深く頷くと、
「黒川も反省していたぞ。剛が続いている、大切にしているって、噂になっているからな。あの頃は付き合って間もなかったから、黒川は、てっきりナンパしたままだと思っていたのだよ。……そういえば、栗山が剛に会いたがっていたぞ」
と言う。
「そっか。でもなんで、栗山が俺に会いたがっているのだよ?」
「栗山は朝鮮学校に行った」
「栗山が? なんで?」
「栗山は真面目な奴だから、剛が言ったことをずっと覚えていたのだよ。一人ひとりの顔に『金正日が好き』とか『金正日が嫌い』とか書き込むなって言われて。あの時は、クラス中が剛を笑いものにしたけれど、栗山は正論だと思った。チャリティ講演会に行って、先生の話を聞いたって。……まあ、医者志望だしな。コリアンの患者を診るつもりなのだろう」
「そっか。俺も、またそういう努力するかな。凛と新大久保の交流会は昨冬以来、行ってない」
「広瀬さんが行きたがっているなら、行ってあげたら?」
「『剛は日本人だね』って言われたままだ」
田中はにやりと笑って、去って行った。
「学校で点数をつけられたり、模試で偏差値をつけられたりするばかりが俺達への評価じゃないから、『正しい』とか『間違っている』とかで割り切らずにおくものが知らず、知らずに積もるものだよ」
意味深な田中の言葉だが、田中はこれ以上詳細に意味を言わない。
――やがて公園の並木も紅葉して、チラホラと落ち葉の季節になった頃。
剛の心を切り裂くような音で、ピッチが鳴った――通知は恵からだ。
「恵! どうして?」
剛はまず驚いた。
恵から連絡が来るなど夢にも思わなかった――さては、誰かが恵に伝えたのか。凜との交際を知って、恵は怒ったのだろうか。しかし、別れると言ったのは恵だろう。
剛は、不安が勝って電話に出た――土曜の夕方六時だ。恵に、何か起きたのだろうかと思って、思わず受電した。
「剛。まだ電話が通じてよかった」
「恵か。どうした? 何かあったのか?」
「ガストに来い」
ガストとは、新大宮バイパス沿いにあるファミレスだ。自転車で十五分の距離にある。恵の家からはもっと近い。昔の口調で「来い」と言われた。男勝りな性格が相変わらずの恵の声が懐かしいと思った。
「どうしてだ?」
「『どうしてだ』なんて言ってくれるか。もう新しい女とラブラブなくせに。……その調子で会いに来たらどうだ」
「会うわけにはいかない」
「知りたくないか。なんで終わったのか。次の女を秒でつくった時は、切れるのを待とうと思った。今日だけ会って欲しい」
恵の姿を、剛はよく思い出した。中学三年生の頃に「私は勉強が出来ないけれど秀才が好きだ。剛は、勉強が出来るのに私に似ている」と言われ、交際を承諾した日まで、記憶が遡る。
剛は、かつて田中の誘いに乗って凜と結ばれた。その経緯が今にして思えば軽率だったと、この時ばかりは思った――凜の心の中をまるで植物が育つように感じ取るとき、ふと、恵はどうだったのかと悔いることが、この一年間に数回あった――それを軽率に捨てた罪悪感がけたたましい警告音のように、剛を突き動かして……。
「わかった。誰にも言うな」
剛は、ガストに急いだ――懐かしい恵の声に心が締め付けられる。清算だろうか。清算なら構わない、むしろやるべきだ。
二人で何度も通った店――結局、交際なんて同じことの繰り返しで、凜ともいつか別れの時が来て、また違う誰かと付き合って、そうやって生きていくのかと疑う。まるで自転車のタイヤのような生き方をするのではないか。もちろんそんなのは嫌だ。
――剛が店に着くと、恵は二人掛けの片方に座っていた。
剛は、恵の席の傍で立ち尽くした――俺が空いているほうに座ればいいのだと思っても、躊躇った。恵を、立ったまま上から見下ろして「どうしたのか教えてくれ」と言う。
恵は、剛をまじまじと見て、微笑む――まあ、座って! とはしゃぐような声で言う。
「誰かに言ったか?」
「言わないよ~! 来てくれると思っていたから~! 背が伸びたね! ほんの少し伸びただろう? 目線が全然違うな」
「そうか?」
「顔つきでわかるよ。剛も男らしくなった。私も、男友達を何人もつくったのだよ。抱かれる度に、剛とはそういうことをしなかったと思っていた」
ぎくしゃくしたまま、いくらか二人で話した。
一年の空白で恵は過去と不連続な別人になったと、剛は思えた――丸い目に大きな瞳と声が、あの頃と全く同じだが、中身がどこか別人になっていると思う。すると、頭の中をぎゅるぎゅると考えが駆け巡る――自責はない。恵が勝手に様変わりしたことが、今更なんだと自分でも思うし、自分と別れたからそうなったというのも違う。
恵は、剛の反応が芳しくないと思ったのか、溜息をついてから本題に入った。
「帰ってこい」
「それが呼び出した理由か。……俺は凜を離さない」
剛は、丁寧に経緯を説明する。
「凜は在日コリアンだ。大学も同じところを目指している」
「頭良い女にしたのか? 馬鹿にしやがって!」
「凜は俺が守る」
「何からだ?」
「たとえば凜自身の弱い心から」
ガターンッ!
恵は立ち上がって「馬鹿にしてやがるなあ!」と怒鳴った――私に言っているだろう! わからねえと思ってやがるな! 恵は店内で絶叫する。
「心を強く持って欲しい」
アッハッハッハ!
恵は、今度は笑い出した――
「何が在日コリアンだ! 手を差し伸べてやがるのか! 差別する奴がいるから、手を差し伸べる奴がいる! コインの表と裏だ!」
「違う!」
「今ここで凜に電話しろ!」
「できるわけがないだろう!」
「だな! 恋人じゃない証拠だ! 恋人だと思っているなら呼び出して決着だろうが! 夜にテレビでやっていた『ここがヘンだよ日本人』みたいな真似してやがる。そうやって日本人が綺麗だと思っていたいのだよ」
剛は、言葉を失った。
恵が言い終わると、店内はしんとした。
剛が頭を抱えると、恵は両腕を広げた。
「さよならのハグ」
剛は躊躇う。
恵は「さよならだから~!」と明るい声で言う。
剛は、一瞬、一番好きだった頃の恵と重なった。
恵の匂いがした――
剛は、「さよなら」と言い聞かせて恵を抱いた――恵の身体は、激情とは裏腹にただ暖かく、柔らかいだけに感じられる。
「剛。いつでも戻っておいで……」
恵は包む様に剛を抱く。
剛は、恵の抱擁が思ったよりずっと優しく感じられたが――巧みにそのような体温を用意したと思った。その瞬間に血の気が引いた――俺は凜に、このように偽造したものは何一つなかった――俺が恵にしたことも、恵が俺にすることもガラクタ、虚仮、似非の類だと思った。
恵は腕をほどくと、あの頃と同じ顔になっていた――今度は思い出と連続的な恵が「凜と切れたら私だ」と寂し気に言った。
剛は、心臓が飛び出るほどの恐怖心に駆られた。
「俺は軽率なのだ。きっと、やることなすこと」
「ん? どういう意味だ?」
「すまない。凜が好きだ。もう忘れてくれ」
剛は、自己嫌悪をぐっとこらえて店を出た――わからないときは、お祈りをしていればいい。そう言ってくれた凜を信じるうちに、もし叶うなら血よりも濃いものを飲み干して、凜に合わせる顔を再構成したいと願う。
――帰宅すると、やらねばと思い、自己嫌悪をグッと堪えて凜に電話した。プルル、プルルと鳴る着信音と心臓の鼓動が良い勝負だ。
「明日、携帯電話を買い替える。一緒に来てくれないか」
「え? 一人で買えないの? デートの日と勉強の日を分けようって言った」
「ごめん。その場で新しい連絡先を交換したい」
「う……うん……。わかった。何があったのかわからないけれど、平気だよね?」
「ありがとう」
「……また駅前だね。……午後二時でもいいかな」
「ああ。よろしく頼む」
「……声。どうしたの?」
「声? 何が?」
「……わかった。わかったよ。またね」
電話がプツリと切れると、剛はどっと疲れが出て、そのままベッドに突っ伏した。
――そうやって剛は、翌日曜日は少し無理を言って、凜と携帯ショップに行った。そして、新しい携帯番号をその場で凜に教えた。
凜は嬉しそうに「顔つきが急に変わったけれど大丈夫?」と尋ねる。
剛は「一緒に大学に行こう」と意気込みを伝えた。
店前を通り過ぎる人混みの中に、恋人連れがいる。
一組、二組、肩寄せ合って歩いて、去って行く。
――俺達も誰かの風景なのだね。なんの変哲もない風景のようにいられたら。
凜は、
「キスしよう」
と言って、剛の胸に手を当てる――そのまま顔を近づける。
突然のことに動じず、剛は唇を重ねた――目をつぶる直前に凜の瞳を見た。黒い真珠のような瞳を――凜は、剛を賢いと言った。確かに、凜と交際する間、頭で解体したものは本当に多かった。
感情が高ぶって、剛は不覚にも涙を浮かべた。
凜は指先で剛の目から涙を掬って、笑う。剛は思う――この瞬間の一枚の絵に描かれたような凜の全身を、俺が守り抜けることを、誓いたい。
剛が、凜を抱き寄せると、凜は驚いた顔をする――俺は今どんな顔をしている? 剛はわからない。
「剛の心にも絆創膏が必要な部分がある」
凜は、下を向いて、何かに怯えているようにも見えた。
「そんなものはない。凜を守りたい。信じてくれ」
「いいよ、剛。行こう。歩こう」
そして、二人で抱き合うような距離で、剛は凜と駅まで向かう――俺達は何度でも風景画のように描かれるのだと、剛は心を奮い立たせた。失わない、失うものかと剛は自分に言い聞かせた。
凜は「一周年のお祝いは何処へ行くの?」と尋ねる。
剛は「思い切って横浜とか行ってしまおうか、見てみたいな」と答える。
「探検しても仕方が無いよ。……それに、クリスマスはお爺ちゃんに祈りたい」
剛は、腕にしがみつく凜の指が、いつぞやの牙のような感触に変わって、意味を理解した。
「剛の家に行きたい」
「いいよ」
「何をしても、誰にも言わないで。誰にも見せないことを、するから」
凜の細い声が、耳の穴をふさいだ。
凜が何をするというのか、意味は一つしかない。
二人は足を止めた。
剛はまるで音のない世界で、「一生一緒にいて欲しい」と呟いた――そもそも血よりも濃いものとは? おそらく一生涯凜を守れなければ、誰もそのように守れないだろう――口から出た言葉に置き去りにされた心の中の少年は冷静にそう思う。
「一生一緒だよ」
剛は、凜の言葉が、鉄の留め具のようで安心した。
「剛のように強くなりたい。日本人なのに、私を恋人と認めるためにあらゆる努力をする剛のように強くなりたい」
剛は、ぎりぎりと音を立てるような凜の指先にそっと手を添えた。
「凜は恋人だ。運命の人」
剛は、言った瞬間に背中に悪寒が走った――背中のぞくぞくとする寒気を堪えた。
「そして俺は日本人だ」
凜はゆっくりと指の力を抜いて、「私を守る人」と言う。
「そうだ。間違いないから」
剛は、また背中に体温が戻ってくるのを感じた。
言葉を無くしたように、二人は佇んでいた。
周囲の目が恥ずかしくなって、また歩き出すまでの間に、剛は凜の呼吸音をずっと聞いていた。