旗のない彼女のモノローグ 第二話

 ――帰宅すると、早速、凜からメールが来ていた。
「よろしくお願いします」
「無事、帰れた? よろしく!」
 剛は本当に、北朝鮮とは金正日という将軍様がいる国で、不定期でテポドンを飛ばすとしか知らなかったため、まず日本史から勉強をし直した――剛は要点だと思うものを整理してノートにまとめた――朝鮮半島は、第二次世界大戦の前、一九一〇年から日本が三十五年間植民地支配をした地域だ。一九一九年に三・一独立運動がソウルで起き、朝鮮全土に広がると、総督府は、被支配層の大規模な反発を避けるために「文化政治」を行う。言論と思想を限定的に開放し、朝鮮人が一枚岩になって反逆することを巧みに避ける。
 剛は、アングラなウェブサイトも見た――信用に値しない情報ばかりだと直感で思ったが、凜が置かれている状況には違いないと思った――黒の背景に、黄色の文字で「反日朝鮮人は食人族!」と書いてあった。目を疑うような言葉だったが、日本人が作ったサイトだと思われた――サイトの制作者は、差別を再配布しているのか、パロディにしているのか、よくわからなかった――かつて、この犯罪流言で大勢のコリアンが命を落としたのに何をしているのか。
「凜は、差別を受けている子だ! 差別なんて現代日本にあるのか! アパルトヘイトも撤廃されたのに、日本は差別をやっているのか! 俺は何も知らずに暮らしていた! 俺は凜を守らなければならない、彼氏だからな」
 剛は、またメールを送った。
「怖いウェブサイトを見たけれど、俺、気にしないから。もちろん俺は差別をしない。俺を信用して欲しい。歴史の勉強もした」
 しかし、返信がなかなか来なかった。
 剛の心に急に不安が立ち込めて来た。
「言われて嬉しい言葉だっただろうか?」
 剛は心の中で呟く。
 メールボックスの受信トレイを見つめながら、剛は、余計な事を言ったかなと思った。
「インターネット、嫌いなの」
 ようやく凜から返事が来る。
 剛は、指先を滑らせるようにメールを打ち込んで送信する。
「ごめんよ! そうだ! 明日から放課後は待ち合わせしよう」
「いいよ」
 ――二人は、放課後は頻繁に駅前で待ち合わせをした。
 最初の一週間は、ファーストフード店で飲みものだけ頼んで、ずっと話していた。
 その後は、大宮駅で遊んだ日もあった。
 剛が「東京に行こう」と言うと、凜は「東京はあまり好きではない」と言う。
「上野駅から歩いて湯島天神に行こう」
「学問の神様だからお参りしよう」
「東京大学も近くにあるよ」
と誘っても、頑なに「嫌だ」と訝しげに答える。
 その日は、交際開始からはじめて凜が機嫌を損ねたようだった。
「よくわからないけれど、デートは近場がいいの?」
 凜はこの言葉に、気恥ずかしそうに笑った。
「神社が嫌いなのか? 十二月には大宮で大湯祭があるから行きたいけれど」
「ごめんね」
「そっか……。残念だな」
 剛は、凜にもう少し気を遣ったほうがいいかもしれないと思った――凜は恵と違って大人しい子だから。だからこそ、剛は「俺が大人ぶって凜を引っ張っていかないと駄目だ」と思った。
 二人で会っている時も、凜の声――その音の響きに合わせるように、剛は自分の口調や言葉尻には気を遣った。歴史の探検の様にアジアの本を読むことも、日課に取り入れた。
――でも、もっと賑やかな子がよかったかな。
 凜は、大人しい性格だが、時折、優しさを与えてくる――カッコいいよ。素敵だよ。そんな甘い言葉をかけたと思えば、またしんと静まり返って隣にいる。
 この日、二人は公園を歩いていた。紅葉の季節に、落ち葉降る道を共に歩く。最近読んだ本の話をするのも日課になっていた。教養人の真似事のようだと思っても、凜の輪郭を追いかけるように、歩んでいく。公園の道然り、朝鮮史の勉強然り。
「剛のことが好きだよ」
「そんなに頑張らなくていいから。はじめての彼氏だからって」
「どうして? 剛は私のことを好きじゃないの?」
――凜には、見聞きした情報で解体できない「性格」がある。その性格をもっと明るく、ぱっと弾けるようになって欲しい――やはり、今まで育ってきた環境――周囲の接し方も要因となって、凜は大人しいのだろうか。
 剛は首を傾げて、「好きじゃなかったら会わないだろう」と曖昧に返事をする。
 サクッと落ち葉を踏む音が止まって、凜は立ち止まる。
 ――しばし沈黙。落ち葉降る公園の道で、ポツンと立ち止まった凜は、まるで版画のような姿で、剛をジッと見る。
 剛は、凜がどうするのか、ただ見ていた。
 凜は、すっと手の平を差し出す。
「繋ごう」
 剛は、音楽でいえば、まるでトレモロのようだと感じた――二つの音が交互に鳴る感じが俺達みたいだね――落ち葉の絨毯が敷き詰められた公園で、剛は凜とはじめて手を繋いだ――北浦和公園は、剛の高校の最寄り駅の駅前にある大きな公園だ。公園と言えば、あとは浦和の別所沼公園で会うことが多かった。
「でも、いいな。可愛いよ、凜」
「ありがとう! そう言って貰えて!」
 剛の誕生日は二十九日だった――この日は本屋でデートをした。放課後は陽が落ちるのも早い。昨年から再開発がはじまったさいたま新都心駅から、北与野駅まで歩く。大きな本屋に着く頃には、夕暮れも過ぎていた――ビルの最上階のCDショップで、また二人は手を繋いだ。
「剛の好きなラルクアンシエルは新曲が出ないの?」
「出たばっかりだよ。映画の主題歌になった」
「前の彼女と付き合っていた頃でしょ。だから新曲が出て欲しいの。映画は見に行ったの?」
「行っていない」
「行かない。映画だけは」
 すねた凜の、澄んだ小声が心に響く――剛は、もっと優しい歌を好きになる魔法のような凜の声に耳を傾ける。
 向かい合う時間が、落ち葉のように降り積もっていく。
 剛は、これから冬になる今くらいの時期が一番好きだった。幼い頃に、親から誕生日プレゼントを貰った名残だと思う。凜の誕生日は二月だった――二月まで続くといいなと素朴に思う。書店のエスカレーターを降りながら、窓ガラスに反射して映る凜の姿が、あっさり手に入れた交際相手だと思う。
 二人は本屋を出ると、北与野駅のバスターミナルの所でずっと立って話していた。国道十七号を通り抜ける車のライトを、時折見ながら、やっと打ち解けて話せるようになったことを感じる。凜の安心した笑顔が嬉しかった。
「クリスマスは家に来て欲しい」
「え? 凜の家に行くのか」
「そう。パーティをするの、クリスチャンだから」
「信仰があるの?」
 凜は、急に俯いて、顔を赤くした。
「私ね、中学までは絶対に秘密にしていたの。本当の名前も、在日コリアンだということも。剛は、子どものように無頓着だけど、優しい。真面目で、あと賢い。ちょっと恥ずかしい」
 凜は、そう言って、また顔を上げた。
 凜の目に映る剛がどんな人物か、剛は知らされた。
 剛は、少しずつでも優しい人物に、本当に、凜が言うような人物になろうと思った――おそらく、俺が思うよりずっと、凜は社会的困難を抱えているのだろう――俺なんかが、優しい。
「そう思ったのか」
 剛は、思わず呟いた、そして凜の両目を見る。
「信仰があっても驚かないよ」
 凜は、独白するように話し出した。
「祖父が、平壌で牧師をしていたの。お父さんは、無宗教だけど。私は祖父の昔話を知って、クリスチャンになった。日本が満州を占領した年の冬は厳しかった。祖父は雪の降る平壌から海風の凍てつく釜山に移住して、結核になった。その下宿屋で祖母と出会い、回復を待った。やがて大阪の大叔父を頼って来日したの。当時日本への渡航は制限されていたから、大変だったの」
「……歴史の話は嫌じゃないよ」
「祖父の遺留品の中に聖書があって『すべては神のご計画です』とメモ書きがあったの」
「遺留品って?」
「祖父は、第二次世界大戦の末期に大阪の留置場で警察官から暴行を受けたの。それが直接の原因となって死んでしまった」
「どうして警察に捕まったの? 牧師だったよね?」
 凜はまた、独白するように話し出す。
「祖父は、神社参拝を愛国行為として義務付けられたの。祖父は、平壌のアメリカ人宣教師の下で学んだ。朝鮮の近代化は準備が出来ていたのに日本はそれを盗んだ。総督府は、コリアンの平和を愛する民族性に目をつけて朝鮮を支配した。ある日、ついに狂信的な者が参拝を拒否した、『私は死を恐れない』と言って。連帯責任で凜の祖父は投獄された」
 凜の声は鋭く尖っていた。
「本当は、日本にいるのが嫌なのか?」
 剛は、遠慮のない言葉になったかと思った。
 凜は、手を伸ばして、剛の袖を握り込んだ。
「ごめんね。せっかくの誕生日なのに」
 俯いて、キュッと剛の袖を握り込む凜。
 剛は、今月知り合った女の子の持つ世界にものおじせず歩み寄る。
「……でも歴史の話はそんなに大事なのか?」
「私には、今も国旗がない」
「……そうだった。すっかり忘れて」
「忘れないで」
 凜は、言葉を遮る様だった。
「おう。凜は彼女だ。俺が守ると決めた。誕生日は楽しかった。凜のおかげだな。これからもよろしく」
 剛が笑うと、凜も笑った。
 剛は凜から頼られることを望む――日本人の俺が、コリアンの凜を守るという目線を意識して止まない――そんな、一本の恋路。凜の大人しい性格と語り掛ける声が自分宛であることが、いつしか幸福だと思うようになっていた。
 ――二〇〇一年十二月になって、より一層、仲睦まじく過ごす二人。東京は嫌だと言っていた凜に「行こうよ」と言われて、二人は新大久保で開かれた在日コリアンの交流会に出席した。
 この日はみぞれのような初雪が降っていた――シャリシャリと音を立てて、凍てつく寒さの中を歩いて会場に向い、会場では有意義な時間を過ごせた。
 会場には、古代朝鮮の文化や、日本の植民地支配についての展示物があった。
――在日コリアンには一人ひとりの顔がある。
 剛は、話し方から考え方まで様々だと知る。
 生まれてはじめてのコリアンタウンは別世界もいいところだった――剛は「日本の中に別世界がある」と率直に発言した。これは、なんとなく思っていたこと――日本には日本人がまずいて、そしてコリアンがいる。この日本人を標準に見る視点を切り替えにくいと、交流会で率直に打ち明けた。
 在日コリアン達は、深く頷いて聴いていた。
 ただ首を傾げる人もいた。
「見学に来たの?」
「私達はここで暮らしている」
「無理もないよ。日本人に有利な目線で見てしまうよね。まだ若いもの」と温かい言葉をくれたが、剛は「やはり『日本の中の外国』という考え方はいけないものなのか」と悩んだ。
 剛は凜と接するとき、「日本人の俺が受け入れる」という目線を禁じ得ない。なぜなら剛自身が日本人として思うのだ、日本列島を、そこに住まう全ての人達でピザのように分け合うべきではないだろうと――突如、そんな思考が鋭く心を引き裂いた。その喩えに乗るなら、ピザは、あくまで日本人の所有物で、コリアンに御馳走しているものだ。
――そもそも、ほとんどの日本人がそのような議題に取り組まずに暮らしているとさえ思う。自分がまるで無知だったように。
 剛は、大いに悩まされた。
 剛の顔は強張ったし、何かを吐き戻しそうな感覚もあった――日本人であることの意味合いが、凜と出会ってから交錯するようになった。
 帰り道で、凜は申し訳なさそうな顔をする。
「ごめんね、剛は日本人だよね」
 剛は凛の顔を見て、「好きだ」と呟いた――日本人から見た在日コリアンという目線が関係を擬制していくものの、その傾斜は誤りだと習った。
 剛は、凜は聞こえない素振りをしているのかと思った。
「好きだ!」
 今度は力強く叫ぶ。
 凜はハッとして剛を見た――そして頷いた。剛は凜の手を握る力を強めた――出会ったばかりの凜を恋しいと思っているだけだと、自分に言い聞かせるように。
 剛は、国籍の違いを勉強で埋め合わせることで、日本人同士の交際では育たないであろうものが育つことを恐れなかった。そうしたテーマにいくらか埋没している凜の本当の性格を、時に掬い上げる様に知ろうとする自分の心が、何に由来しているかは気になった――それは、憐み――そのうえで恐れなかった。凜を、憐れんでいるだけだという疑惑など、足の裏の米粒ほどにも感じなかった――凜が好きだった。
 ――クリスマスは、凜の家に行く。家でお祝いをする。

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