第一一回 勤労立国日本の労働市場真理教

 中学公民の授業でも取り上げられるように、いわゆるブラック企業は、危険な長時間労働で労働者を疲弊させたり、入社後に恣意的な選抜(実質的な解雇)を行ったりする企業である。求人票に「当社はブラックです」とは書かれないため、求職者は情報の非対称性のもとで不利な選択に陥りやすい。これは市場の失敗の典型である。人材派遣の世界でも過当競争は熾烈であり、時に見栄えのよい好条件を掲げながら実際には充足済み、あるいは存在が疑わしい「空求人」で登録だけを促す手口が散見される。派遣会社にとっての顧客が主として人員を発注する企業であり、労働者は供給側の資源として扱われがちであるという構造が、この齟齬を生む。
 ブラック企業が実態を隠して人を集めることは、育成に投資する企業へのフリーライドである。同様に、空求人で登録を集める事業者は、真っ当な求人を流す事業者へのフリーライドである。フリーライドとは、たとえば公園清掃にごく一部の市民が携わることで、多数の人がその恩恵をただ乗りする構図を指すが、雇用の場面では人的資本への投資や求人の信頼性といった公共財を食い潰すかたちで現れる。
 格差を考えるうえで最も直感的なのは所得格差であるが、単年の比較より生涯所得の差として把えるべきである。正規雇用は職歴全体で長期化しやすく、結果として生涯所得が高くなる。他方、非正規雇用は断続的・短期的になりやすく、生涯所得の低さに直結する。ここで重要なのは、企業内でのトレーニング(OJT)が雇用形態に沿って偏在している事実である。経験に応じてより高度な業務を任せる機会は正規雇用に厚く、短期補充が前提の非正規には薄い。そのため非正規比率の高い職歴は「年齢の割に訓練機会が乏しい」という評価を招き、再び非正規に回帰する負の循環が生じる。雇用形態と所得格差を結びつける根は、まさにこの訓練機会の偏在にあると考えられる。
 格差是正の方策として第一に浮かぶのは、トレーニング機会の均等化である。非正規であっても一定期間の勤務を積み重ねた者には、正規と同一タイミング・同一水準の訓練を付与する仕組みを整え、業務の質配分で格差を固定化しない。企業は労働者を平等に育てる努力義務を自覚し、それを社会的規範として普及させるべきである。ブラック企業が悪とされるのは、外部が投じた育成コストの上にただ乗りし、獲得済みの職能を「使い捨ての消耗品」のように扱うからにほかならない。
 現代の成熟した資本主義のもとでは、「金さえあれば一人で生きていける」という命題に頷く空気がある。命題の真偽はさておき、医師が医師であり続けるために外食、理容、物流など日常の一部を外部化するように、貨幣は生活機能の外部委託を可能にする。孤立が進むほど、選択の幅そのものが自由と同義になり、蓄財は善とされ、職業は自己実現の手段=天職とみなされやすい。日本の労働市場は、若年期の就職で特定の技能に賭け、以後も「高く売れる道」を選び続ける合理性を強く後押ししてきた。情報技術なら情報技術、その中のインフラならインフラといった具合に専門化へ収斂し、賃金で序列化される市場は、この生き方に一貫した正当性を与える。
 しかし、マックス・ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で描いた起点は、蓄財が勤勉の結果であり、勤勉が神の意志に従う宗教的義務であるという構図であった。ここでの「天職」は、神から付与された召命として意味をもつ。ところが、孤立の中の自由が貨幣への信仰に傾くとき、自由主義的労働市場は職業召命観を世俗化し、しばしば空洞化させる。貨幣で買えるものの選択幅が自由の総体であるかのように見え、人は市場での価格が高い役割へと自己を適合させ続ける。私たちは、この傾向を「労働市場真理教」と呼びたくなる。
 他者から信用を得る道は、本来もっと素朴である。優しさ、思いやり、感謝といった感情が向けられ、応答が返るとき、信頼が生まれ共同性が形成される。高層ビルも公共施設も、人が人を信用した痕跡の上にしか建たない。私たちは信用の結晶に囲まれて暮らしながら、なお他者を信用しないという怠慢に陥りがちであり、孤立の中の自由はその怠慢を強化する。神がどこかに「本当の自己実現」や解放、すなわち自由を隠しているわけではない。市場に忠実な人々もまた、クオリティ・オブ・ライフやワーク・ライフ・バランスなどの語で幸福を求め続けている。ただ、その追求が貨幣の指標に過度に依存するなら、共同性の回路を痩せさせる危険がある。
 国際比較をめぐる報道には、しばしば単純化や齟齬が混じる。誰かが「日本は追い抜かれた」と語るとき、その人がどの指標を信じ、どの物語を見ているかが問われる。自由主義市場でうまくやれている者と爪弾きにされている者とでは、世界の見え方も拠って立つ信念も異なる。人は見たものを信じるのではなく、信じるものを見るのだという指摘は、ここでもあてはまる。だからこそ、雇用の公正さと育成の公共性を制度として担保し、情報の非対称性を縮め、フリーライドを許さない仕組みを積み上げる必要がある。貨幣の選択の自由だけに自由の全てを収斂させず、関係の中で形成される信用と相互扶助を、生活の当たり前として再起動することである。労働者を平等に育て、求人に信頼を回復させ、孤立の中の自由を共同の自由へとつなぎ直す——その具体の改良こそが、格差と不信の連鎖を断ち切る最短の道である。
 スピノザは、世界の一切が必然の秩序において生起すると捉え、人間の自由とはその必然を了解することにほかならないと説いた。投げられた石が自由に飛ぶように見えるのは表象の側の錯覚であり、現実には必然の連鎖があるというわけである。他方、アダム・スミスの「見えざる手」は、市場における分権的調整を示す比喩として理解すべきであり、神学的決定論を直に前提するものではない。スミスの中核には『道徳感情論』の「公平な観察者」の視線を内面化する仕方があり、人は第三者的な共感の校正によって過度な自己愛を抑え、行為を修正する。善い行いは共感を呼び、そのために再生産され、悪しき行いは共感を得られず、ために改められる。こうした多くの個別判断の集積が通念や規則を形づくるという見取り図は、『国富論』における「自然価格」(通常利潤を含む費用均衡)とも通底するが、両者は著作も射程も異なる点を押さえておくのが正確である。宗教改革以後、ルターの職業召命観は勤勉と蓄財を徳として位置づけ、マックス・ヴェーバーの言う資本主義の精神を準備した。その後、産業革命を経て社会が複雑化するなか、功利主義はベンサムの「最大多数の最大幸福」から、J.S.ミルの「多様な性格と生の価値」へと射程を広げ、成熟した市民社会の倫理的基盤を厚くしたと読める。
 これに対してカール・マルクは、賃金労働者が生産手段を持たない資本主義的生産のもとで、必要を超える労働から生じる剰余が資本に帰属する構造を析出し、貧困の再生産と階級対立を告発した。彼の自由論の底にはスピノザの情念論に接続する要素――欲望の拘束が人を不自由にする――が見て取れる。私的な問答で好む徳として「質朴」を、嫌う悪として「卑屈」を挙げ、「すべてを疑え(De omnibus dubitandum)」を座右に置いたと伝わるが、こうした標語は安直な弱者擁護ではなく、卑屈に堕さない方法的懐疑の姿勢を示すものとして読むのが穏当である。重要なのは、懐疑が情緒的な猜疑に流れず、現実の関係や制度に向けられるとき、初めて批判としての力をもつという点である。
 働き方に即して言えば、ここで便宜的に三つの仕事の型を区別しておく(以下は記述上の操作的区分である)。第一に「正解がわからない仕事」がある。これは定式化された答えがなく、状況からよりよい方策を構成する営みである。第二に「正解がある仕事」がある。知識や手順を参照すれば妥当解に到達できる領域である。第三に「正解が設定できない仕事」がある。価値間のトレードオフが先鋭で、合意の作法そのものを設計する類の営みである。学校教育で高い正答率を示す者ほど第一や第三の領域を任されやすい傾向はあるが、それは賭けではなく、状況から “had better” を編み出す実践知を要する。そこから外れた者が第二の領域へ移ることも珍しくないが、そこが単なる答え合わせの場にとどまるわけでもない。内部統制や品質確保のために討議や説明責任が付随し、最適解への到達能力が問われる。
 いわゆるエリート像については、一般化に慎重であるべきだが、しばしば観察されるのは自制と回避の能力である。興味の赴くままに知を広げたい衝動を抑え、集団の安定のために衝突を避ける作法を身につける――その能力は、個としての強さと共同性の維持を両立させるための技法といえる。ただし、心理特性と成果の因果を短絡させることは避けたい。個人差は大きく、文脈依存の度合いも高いからである。
 他方で、貧困の現実は俯瞰のレンズだけでは捉えにくい。歴史に名を残す思想が社会の貧困を遠望しても、一人ひとりの困難は視界から零れ落ちる。ニーチェがキリスト教的憐れみを価値の再評価の文脈で批判したことを参照するにしても、それを貧困一般の説明原理に拡張しすぎない用心が要る。実際の貧困は、選択肢をマネジメントする力を奪い、納得した信念にすら身動きが取れなくなる状況を伴う。集団もまた些細なきっかけで崩れやすい脆弱性を抱える。その局面で、人は合理的に見える依拠先にすがらざるを得ないことがある。ゆえに必要なのは、懐疑を空疎な否定に堕とさず、関係と制度の設計へと向け直すことである。スピノザの必然理解は欲望の拘束を見抜く光を与え、スミスの共感論は公共的判断の校正装置を与える。功利の尺度は計量可能な面を可視化する一方で、ミルが指摘した多様な生の価値は人格の不可換性を思い起こさせる。そしてマルクスの方法的懐疑は、既存の秩序がもたらす不自由を測るための批判の定規を手渡す。
 総じて言えば、自由を欲望の奔流としてではなく、関係の中で可能になる自己規律として捉え、共感を情緒の同調ではなく公共の審級として鍛え、数的合理性と人格の不可換性のあいだに橋を架けること――この三点を同時に手放さないことが、現代の労働・教育・格差の問題系を空理空論に回収せず扱うための最低限の作法である。必然を知って選ぶ自由、他者の視線を内在させて修正する自由、制度を通じて誤りを改める自由。これらを重ね合わせるときにのみ、倫理の抽象は現実の手触りを獲得し、個人の努力は共同の秩序と結び合い、貧困の硬直には具体の改良が差し込むのである。

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