二〇二五年の日本は、未曽有のイデオロギー対立の最中にある。
自由民主主義とは、ブルジョワとプロレタリアートとの階級闘争の折衷案――和解方策だったはず。大雑把に言えば、「金持の意見を聞きましょう」と「皆の意見を聞きましょう」の折り合いを目指したものだ。
江戸時代の日本は、カネが資本主義でコメが社会主義だった。そのせいか、ヨーロッパ風の階級闘争が大いに遅延している。太平洋戦争中も共産主義者は「アカの大悪党」と呼ばれ、スパイ(敵性語の書いてある本を読む人など)よりも憎しみを込めて排除されていた――折り合いと言われても、そもそも賃金労働者階級が奮起して争いを起こしたことがない。つまり、日本では「労働者が闘って勝ち取った民主主義」というよりも、戦後の占領政策を契機に「外部から制度として導入された民主主義」という側面が強い。そのため「ブルジョワとプロレタリアの折衷」という歴史的背景が弱く、民主主義の基盤がヨーロッパ型とはかなり異なっている。
ただし見落としてはいけないことは、日本版の自由民主主義とは、戦前からの流れがきちんとあるということだ。
利益構造の多元性を前提とする社会統合とは、各集団が自らの権益を主張することを否定せず、その調整手段として代議制(自由主義的・民主主義的な代表制)を用いる立場を指す。
満州事変を契機に、関東軍主導で満州国が樹立され、日本語教育を含む植民地的統治が進んだ。五・一五事件は政党内閣の基盤を大きく損ね、軍部の発言力増大を象徴した。
犬養毅首相は、対中問題の外交的解決を志向し、満州国の承認には消極的だった。これを天皇の軍部への憤慨に「従った」と断定するより、内外情勢と文民統制の観点から抑制的方針を採ったとみるのが適切である。
当時の日本は外見的立憲君主制のもと、国家法人(天皇機関)説が有力説の一つとして唱えられたが、これは統治機構の法理論であり、現代的な「自由民主主義そのもの」と同一視はできない。国家法人説(天皇機関説)はのちに軍部・右翼勢力から激しく攻撃される。
当時の「多元」的発想は、国家を一個の法人として捉え、複数の機関・利害の調整を想定する法理に見られる。これは天皇を含む国家機構の一部として位置づけるもので、主権在民の自由民主主義と直接同義ではない。
一九二〇年代の朝鮮・台湾では、「文化政治」「民族融和」などのスローガンの下で統治手法に一定の柔軟化がみられたが、支配の本質は依然として植民地的であった。
犬養の経済観には通商重視や財政均衡への配慮が見られるが、のちに言われる「東アジア経済圏」を積極的に構想していたと一般化するのは慎重であるべきだ。
多元主義とは、社会を複数の自律的な集団・利益団体から成るものと捉え、それらの権益を相互に調整していく立場である。
自由民主主義は単なる選挙制度ではなく、近代ヨーロッパで生まれた一個の政治イデオロギーである。選挙で人びとが自らの利益を代弁してくれそうな候補に投票する――利益代表と代議制の発想は、日本でも明治以来一貫して存在してきた。したがって「戦前の日本はまちがっていて、戦後に初めて自由民主主義がもたらされた」という断層的な理解は単純に過ぎる。
確かに、一九三〇年代後半から敗戦までは、政党政治が翼賛体制のもとに解体され、多元的な利害の競争的代表は抑圧された。この点で「断絶」を見ることはできる。だが、議会と選挙の枠組みそのものが消えたわけではなく、利益を代弁する政治文化は完全に途絶したわけではなかった。
戦後は、占領期の改革を経てこの「利益代表」の仕組みが再び息を吹き返し、五十五年体制下でむしろ肥大化していった。つまり日本の政治史は、利益代表と代議制の連続性を基本としつつ、一時的な例外期を含むものとして捉える方が妥当であろう。
二〇二五年、日本では企業・団体献金の在り方が改めて問い直された。与野党間でも「全面禁止」か「制限強化」かとの間に隔たりが残り、議論はなお揺れている。
この論点は、単なる技術的な資金規制ではない。自由民主主義が想定する「多元的利益の政治的代表」をどう設計するか――その中核に触れる問題である。とりわけ、自民党は長年、企業・団体献金の受け皿として機能してきた経緯があり、裏金・資金の不記載をめぐる一連の不祥事後も、企業・団体献金そのものの全面禁止には消極的だ。
ゆえに、裏金問題の追及が続く局面にあっても、同党が企業献金を起点とする資金調達モデルに即時には動揺しないように見えるのは、単なる「体質」ではなく、同党が担ってきた利益代表のスタイルと強く結びついているからである。
ある大手自動車会社の従業員数は、およそ三十七万五千人だ。これは東京都新宿区の人口三十二万人より多い。自動車会社の社長とは、自社の従業員にコントローラビリティを持つ立場にあり、その数は東京都新宿区の長に匹敵する規模だ。
大手自動車会社の社長に新宿区長と同程度の政治力を持たせるべきか否か、この論点の存在する現実の政治――企業の社長が代議士に働きかけるなどして、政治的影響力を持つ事で当該企業の利益が守られる、それで従業員の生活や下請企業が守られる。こうしたレントシーキングが行われる現実の代議制は、民主主義から乖離している――なぜなら自由民主主義だから!
民主主義とは利益を守る事ではなく、むしろ理想として直接民主制を掲げる政治だ。古代ギリシアのアテネのように、富める者も貧しい者も議会に参加する直接民主制が現代日本で実現すれば、そこではじめて声を政治に届けられるマイノリティや社会的弱者が救済される。確かに、日本で企業が金儲けをするから市民は国民生活を営む事が出来る。ただしその逆も成り立つだろう。国民生活を営む者がいる、だから企業が金儲け出来る。この二つは真なのであり、国民生活も、企業も、片方がもう片方を断罪する立場に無い。しかしそれが今や「鶏が先か、卵が先か」だ。