円安が常態化しつつある今日、日本人は世界経済のなかで「モノやサービスを安く提供する側」、言い換えれば労働力を供給する側へと押しやられつつある。海外旅行の体感的な物価差や、外国人観光客の「日本は何もかも安い」という声は、その現実をいやでも突き付けてくる。
短期的に見れば、円安の主因は各国との金利差や金融政策の違いにある。インフレ抑制のために利上げを続けるアメリカ・欧州と、長く超低金利を維持してきた日本。その差が通貨の価値に反映されているのは事実だろう。しかし、ここで議論すべきなのは、為替のテクニカルな要因ではない。問題は、なぜ日本がこうした金融構造から抜け出せず、円安局面でここまで脆く、追い詰められた立場に陥っているのかという、より深い層の問題である。
そのとき浮かび上がるのが、食料生産とエネルギーを含む「生存基盤」の弱さだ。日本は戦後、工業立国・輸出立国として目覚ましい成功を収めたが、その裏側で、食料とエネルギーの自給という課題を、事実上「外貨で買えばいい」という発想で先送りしてきた。豊かな時代にはそれでもよかった。しかし、成長が鈍化し、人口が減少し、産業競争力にも陰りが見え始めたとき、同じやり方ではもはや国民生活を守れなくなりつつある。
世界の多くの国々も食料やエネルギーを輸入しているから、日本だけが特別というわけではない、という反論もあるだろう。ただ、日本の特殊性は、「ここまで農業基盤を痩せさせ、カロリーベースの自給率を低く抑えたまま、少子高齢化と長期停滞に突入した先進国」である点にある。かつては「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と称賛された国が、いまや通貨安・物価上昇局面で、食料・エネルギー価格の高騰に最も翻弄される側に立たされている。この落差こそが、世界的な意味を持つ「失敗のモデル」になりうる所以だ。
重要なのは、「食糧生産性の乏しさ」が直線的に円安を生んだ、という単純な因果を描くことではない。そうではなく、日本が長年、工業と輸出に依存する発展モデルを維持する一方で、国土利用、農政、地方の人口構造といった土台を立て直さず、結果として「通貨が弱くなったときにいちばん困る体質」を固定してしまった、という点にこそ失敗の本質がある。為替は表面的な“症状”であり、真の病巣は生存に関わる基盤の軽視にある。
この意味で、日本の歩みは世界にとって警鐘となりうる。豊かな工業国が、グローバル化と安価な輸入に頼り切り、食料とエネルギーの自立性を顧みないまま人口減少と高齢化へ突入するとどうなるか。その行き着いた先が、現在の日本の姿である。だが厄介なのは、当の日本社会がこれを「失敗」として明確に認識しようとせず、むしろ「仕方がない」「どこも同じだ」と曖昧に受け止める傾向が強いことだ。
もしこのまま、日本が自らの選択を反省することなく、「運が悪かった」「時代の流れだった」と総括をぼかしてしまえば、世界もまた日本を本気の教訓として扱わないだろう。「あれは特殊な島国の話だ」と片付けられ、他国は同じ轍を踏む。逆に言えば、日本が自国の歴史を率直に振り返り、「食料とエネルギーという生存基盤を、工業や金融の成功と引き換えに軽んじたことは誤りだった」と言語化できたとき、初めてこの経験は世界史的な意味を持つ反面教師になりうる。
円が弱くなったという「結果」そのものは、一国の興亡の表面的な現象にすぎない。しかし、その背後にある構造――生存基盤の軽視、輸入依存の固定化、農業と地方の空洞化――は、他の先進国もいずれ直面しうる共通のリスクである。日本がこの失敗を直視し、自らの口で否定しなければ、世界もまたそれを失敗として認識しない。その意味で、日本はいま、「自国の衰退をどう語るか」という重い問いを突き付けられていると言えるだろう。