戦後の経済民主化が日本経済に与えた影響――経済民主化とは、①労働者の権利の保障(労働三法)、②自作農の推進(農業生産者が土地所有者)、③財閥解体(安定大株主の禁止)など、自由主義的な市場経済の土壌だ。しかし(a)新卒一括採用の普及、(b)地縁集団として農村、(c)メインバンクシステムなど、高度経済成長期の日本は、アメリカの思惑に対して外見的な自由主義的市場経済に留まっていた。(c)は典型的で、安定大株主が不在の企業経営者らが経営の安定を考えた結果である。
戦後直後の日本経済は、①戦災国に典型的なインフレーションとモノ不足に苦しめられていたし、占領軍による②民政化(文民統制の民主化)と、③非軍事化(対外戦力の無害化)の影響も受けていて、低成長だった。
第一次吉田茂内閣の頃、一九四六年十二月二十七日に、傾斜生産方式が閣議決定された。傾斜生産方式とは、当時の基幹産業である鉄鋼、石炭に資材・資金を超重点的に投入し、両部門相互の循環的拡大を促し、それを契機に産業全体の拡大を図るというものだ。
片山哲内閣は、一九四六年十一月三日公布の日本国憲法に基づく最初の内閣だ。この内閣の主要な政治テーマは、「経済危機突破緊急対策」を掲げ、戦後インフレ対策を中心とし、「自力を以て経済安定を図る」ために重要産業の生産を助成し、統制を強化することだった。その基本を国民の耐乏生活においた。
第三次吉田茂内閣は、経済の再建と国際社会への復帰を目標に、均衡財政の確立、インフレーションの抑制、輸出拡大などを目指した。厳しい引き締め政策(ドッジ=ライン)が順次、打ち出された。
国防と外交では、日本の軍備を最低限に抑えつつ、講和後も駐留するアメリカ軍によって日本の安全を確保するという吉田の選択に対し、野党は激しく反対した。
吉田はサンフランシスコ講和会議に出席し、対日講和(サンフランシスコ講和条約)と、(旧)日米安全保障条約の両方に署名した。両条約は一九五二年四月に発効し、日本は独立国家としての地位を回復したとされる。
占領軍の戦後改革は一九四九年に大きな方針転換をしている。それは冷戦が始まった直後の一九四九年に、資本主義の貿易グローバリズムへ日本を巻き込んでいくべく方針転換であった。超均衡予算等によるインフレ抑制措置や一ドル三六〇円の固定為替レート設定等の貿易環境の整備等を主導したものであった。さらに一九五〇年の朝鮮戦争勃発による朝鮮特需によって、また日本国経済の自律を推奨したことで、戦前の水準に復興したと言われている。
石炭鉱業は、明治期以来、日本経済に重要な位置を占め、占領・復興期(一九四五年から一九五五年頃)においても基幹産業の一つであった。ただし一九六〇年代には日本のエネルギー革命(石油への転換)と割安な海外石炭の輸入増大によって日本の石炭鉱業は基幹産業から一転衰退していく。第二次世界大戦後の占領軍は、日本の石炭を米軍の軍需物質(朝鮮半島における戦争の道具)と考えていたという史実がある。日本国内の石炭に関する調査、報告書、統計に関する保存室など厳重に維持(管理)されていたという史実がある。
第二次岸信介内閣 (一九五八年六月十二日から一九六〇年七月十九日まで)は、インド・東南アジア諸国・台湾・韓国に対して、戦後賠償を含めた経済協力(東南アジア)や反共政策の支援(台湾・韓国)を行った。