世界が一つになっても、経済活動は生産手段のある場所に偏るだろう。
世界の人々は、移動時間にして、就労場所の高々小一時間圏内に居住している。そして居住の周りで消費を行う――生産手段の集積にヒト・モノ・カネが偏るのは明白だ。
人の往来が盛んになれば交通が発達する。人口大国インドネシアは、交通渋滞の緩和――長年自国を悩ませる政策課題の解決を目的として、ようやく二〇一〇年代後半に高速鉄道が整備された。しかし、近年の日本の失敗事例を鑑みると、駅が出来れば産業集積が起きるというのも自明ではない。中核都市のターミナル駅に箱物と呼ばれるテナントビルを建設する。過剰な設備投資で地価が高騰し、後々になってテナント料を店舗が払なくなって箱物が空洞化したり、高騰した地代を払える外資系企業が周辺を買い漁って、地場産業が撤退したりする――皆、欲望のまま生きているから自由主義市場経済という装置を必要とするのだが、市場は常々、失敗する――そうした議論は後述する。
さて、もしも世界政府、ないしは世界通貨当局が存在して、世界共通通貨を発行していたならば――その通貨の名前を「J」と呼ぼう。品物と「J」との交換比率――つまり価格はどのように決まるのだろうか。
そもそも価格は、市場参加者の留保価格とビリーブで決まる。市場参加者とは売手と買手、そして両方を兼任する仲買人である。留保価格とは、買うときは品物に払ってもよいと考える価格、売るときは売ってもよいと考える価格であり、いずれも私的情報だ。ビリーブとは、市場参加者の留保価格の分布を信念として持つということ。
世界全人口が同一の市場に参加できたとしても、市場は分断しうる。たとえば品物イを売買したい AとZが、互いの存在を知らなかったとする。必然的にAとZは異なるビリーブを持つ。AはZが存在しない留保価格の分布を、ZはAが存在しない留保価格の分布を信じたまま。AとZのそれぞれが思う品物イの市場価格は、たまたま一致しない限り異なるだろう。依拠するビリーブが異なるのだから。
もしもAとZが何らかの方法で知り合うことが出来たり、第三者によって存在を教えて貰えたりすれば二人のビリーブは修正される。この修正が大勢の人達の間で行われ、山積すれば、各々のビリーブは似てくるし、各々が思う市場価格も重なり始める。
もしもビリーブの修正頻度と人口の偏在とが密接にかかわっていて、地域によって修正の結果が異なれば市場は分断され、異なる価格が複数出来上がるかもしれない。
裁定取引(アービトラージ)といって、価格の安い地域で買い、価格の高い地域で売って、利ザヤを稼ごうとする行為――これを行う裁定者は必ず現れる。裁定者に対して、価格の高い地域が「J」の流出を防ぐために、何をするのか。
ここで当該地域の人々が結託して自治体をつくる可能性を指摘したい。自治体が地域通貨を設定するのだ。この地域通貨を「T」と呼ぼう――当該地域の産品は「T」で売買され、「J」では売買できないとする。そして「T」と「J」の交換比率――為替レートを誰が決めるのかという話になったときに……。
ここで世界のあらゆる地域が「みんなで話し合おう」と言う。世界の産品を買いたい人と、当該地域の産品を買いたい人との間で、あらかじめ「T」と「J」とが交換される状況を考える。もしも自治体が「T」を大量に発行していたならば、一対一の比率で交換するようだと大量の「J」と兌換され、自治体に住む人は、世界の産品を買い漁ることができる。それを嫌って、一単位の「J」と大量の「T」とを交換するように工夫しても、バランスが悪いと、今度は当該地域の産品が安く買える状況になる。ここで自治体が、大量生産可能な産品に限って外部の買手に販売するよう仕向ければ、域内の経済をそれほど壊さずに「J」を域内に流入させることができる――このように話をしていると、「ああしたらどうだ」、「こうしたらどうだ」と様々な知恵が出てくるだろう。
リベラルとは、そうした話し合いのことだ――どうすれば誰も大損せずに丸く収まるか話し合いで決めようという姿勢だ。
現実の例で言うと一九八五年のプラザ合意が典型的である。当時、経済大国になった日本は貿易が黒字基調で、世界の富を、主にアメリカの富を自国に吸い上げている状態だった。プラザ合意とは、これを円高誘導によって修正した先進国間の話し合いである。日本はその後、量的緩和政策に近い金融政策を実行した。これは、バブル経済を誘発する。
軍事や経済の紛争を話し合いで解決することをリベラルと呼ぶ論者は多いが同じことだ。為替の取り決めは、世界中で武器が捨てられ、戦争がなくなり、人類が本当の望みを叶えたとしても残留する話し合いだから論じた。いずれにせよ「法の支配」という道具を必要とする。