二〇二五年三月二十三日、秋ヶ瀬公園の三池グラウンド。埼玉県さいたま市在住の三十九歳・園田剛は、積雪で順延となったネウロズを見に、妻と娘を連れてきた。ネウロズとはクルド民族(クルディスタン)の新年のお祭りだ――彼らはこの日のために踊りの練習や、衣装の準備をする。
「大きな旗だな! クルドの人達とボランティアが一生懸命に準備した会場だ!」
葉の落ちた背の高い並木を背景にして、天然芝のグラウンドに白いテント、頭上には赤・黄・緑の旗が風に弾けて、薄い春の空を縫っていく。スピーカーから跳ねるリズムに合わせて、人が輪になって踊る。足も肩も勝手に動き出し、笑い声が草の匂いに混ざる。
「開会式の前なのに、もう楽しそうに踊っているではないか!」
腕に子を抱く人、友だちを見つけて喜ぶ人、写真を撮ってはすぐに見せ合う人――日本人の剛は、皆、同じ人類だと思いつつ、写真を撮っていた。顔立ちも、話し方も、日本人とは少し違う彼らを、丁寧に一枚、一枚。
――開会式では、クルド人の代表者とボランティアの代表者が挨拶をした。午前十一時頃にはテントに食事も用意された。家族以外にも、報道陣をはじめ日本人は大勢来ている。
十四歳の娘・朱里は、父・剛の言葉に耳を傾ける。
「これは民族のお祭りなのだ。彼らは魂の還る場所に喝采しているかのようだ。それでもクルドの人達は『私達が主役だ』と言い張らない。とても明るい顔で、日本人の俺達と踊る」
お祭りの喧噪の外れに、異様な静けさがあった。会場のすぐそばの通りで、日の丸の旗を掲げて立つ人たち。彼らはお祭りを荒らしはしない。ただ、こちらへ視線を向け、「ここは日本だ」とクルド人達に告げるように立っている――剛には、そんな見せつけがこの数年で増えたように感じられた。
――日本の国旗。掲げていたのは政治家と思しき人だった。
朱里は「カッコいい国旗だ」と言っていた。
剛は理解していた――教育されているから、国旗だと信じているから、カッコよく見えるだけだと言っても、朱里には通じなかった――朱里は、槍投げの日本人金メダリストにとても憧れている。沢山の国と地域の旗が並んだオリンピックの舞台で、日の丸を掲げることが素敵なことだと思っている。地球上の人達と分け隔てなく寄り添っていく社会で、「私は日本人の園田朱里です」と言う。その際、愛着のある日本の国旗を身に付けていたいのだ。まるでオリンピアンのように。
剛は、そんな朱里に口を酸っぱくして伝えていることがある。
「わざわざ日の丸を身につけると、別の意味に見られることがある。差別と結びつけて受け取られることも、残念だけどある」
朱里は中学生だから、それくらいのことはわかるようだった。
「そうだね。お父さん、いつになく蘊蓄を垂れているけど、どうして?」
剛の視線の先には、右足、左足とステップを刻む、艶やかな民族衣装の妻がいる。剛は思わずカメラを構える。
「踊る母さんが綺麗だ」
「やめてくれない。恥ずかしいよ。本当に子どもだった頃は、仲良しだねって言われて嬉しかったけれど。学生時代から付き合っているなんて、すごく恥ずかしいよ」
「俺に『恥ずかしい』は誉め言葉だって言っただろ」
「娘そっちのけで、写真撮影なんてやめてほしくて」
舞台の上の歌い手が声を伸ばし、空気が一段明るくなる。旗は音に合わせて翻り、色の影が地面を走る——ネウロズ・ピローズ・ベー!
朱里は、「でも面白い。異文化交流は好きだよ」と言って微笑む。
「クルドの人も、日本人が『神秘的だ』と言って一緒に踊る様子が愉快なのだろうな。『本当にお祭りが好きな連中だ』と言っていたりして。俺はそう思うぞ! はははは! なんて言ったら怒られるかな?」
「なにそれ? ならお父さんも踊ったらいいのに。私は踊ってこよう」
「俺は母さんを見ている」
剛は、走っていく朱里の後ろ姿を見ながら、二十四年前の少年の心を、そっと胸に触れた――この場に集う人びとにも、それぞれの来し方があると思う。
そう心の中で思い起こしながら、剛は、再びカメラを構えた。
――時は遡ること、およそ二十四年前。
――あれは、二〇〇一年十一月の、秋も深まる頃だった。
中学時代の担任教諭が「県内屈指の男子校」と説明した高校――卒業生の進路は、有名大学進学がほとんどだ――剛は四月に入学した一年生だ。
剛は、同級生と比較して全般的に成績は良くない自覚があった。定期試験の順位も下のほうをさまよっている。自分でも思い当たる所はある――努力家だが野心がない。渇望がない。情熱がない。
中学三年生の頃は、勉強もスポーツも並外れて出来た剛は、クラスのリーダーだった。父親が郵便局員という平凡な家庭に生まれて、ひたむきに机に向かっていたら高校に合格できた。そこまではよかった。根がバンカラのような連中ばかりを集めた古風な男子校で、入学後の剛は、自分を上回る文武両道の同級生にことごとく敗退していく。たとえば「テレビ局で勤めたい」と今から豪語する黒川秀和や、「スポーツ医は医者志望として意識が低いと思われないだろうか」と悩んでいる栗山健吾など、将来に情熱的な者に歯が立たず。五月頃にはすっかり序列のような認識が学級で出来ていた――剛はあまり勉強のできる者ではない、と。
剛は憂鬱だった。
それは学校とはまた別のことだった。剛は中学時代からの彼女・恵と別れた。中学三年生の頃に同じクラスだった恵と、つい先日までずっと付き合っていた。
恵は、剛の体たらくをよく知らず。交際は、可もなく、不可もなく、のんべんだらりと続いていた。小学校も同じ学区内だったから、よくファミレスで話をした。時には、大宮駅でデートした。昨冬のことでよければ大宮・氷川神社の大湯祭にも一緒に行くくらい仲が良かったのに。それがとうとう、恵から別れを宣告されてしまった。剛は、思い起こしてみれば、交際相手という感覚の相手が欲しくて、付き合っていた。
夏に、剛は友達と共に映画を見に行った。映画は湯屋をテーマにしたファンタジー作品で、空前の大ヒット作だった。恵と一緒に見に行くべきだったのだろうか。剛のピッチに電話がかかってきて、恵は「だったら私も友達を大切にする」と告げた。あの日を境にメール連絡も激減した。
竹を割ったような性格の恵らしいと思ってやり過ごしたのが悪かったのだろう。その後はドラマもなく、まるで古くなった輪ゴムが切れるように交際が終わった。恵は、たいして理由も述べずにこれ以上の交際を断った。
剛は、ピッチに貼ったプリクラを剥がす時、少し胸が痛んだ――もっと彼氏らしくすればよかっただろうか。抱き合ったり、キスをしたりなんて、一切しなかった。物足りなかったのだろうか。
剛は自信を失っていた――男子校で彼女がいる者は、半数以下だ。剛は、彼女がいるという理由で、その基準において選ばれし男性の側にいると浸っていた。それを失った。
紅葉がやがて枯れ木に代わる季節はひと月先だ。
冬になったら、どんな過ごし方が待っていたか期待していたのに。
「剛は、彼女とはどうなった?」
クラスメイトから遠慮なく恋愛の進捗を尋ねられる。好奇心のそそられる話題なのだろうと剛は思う。話しかけてきた田中瑞樹には、彼女がいる。彼女がいる者同士で近況を分かち合う。そんな絡まれ方もある。
「よせよ」
「ピッチに貼ってあったプリクラはどうした?」
「剥がした。振られた」
「やっぱり別れたか。どこか落ち込んでいたのは気のせいじゃないのだね」
田中は、携帯電話を弄る。ボタンを素早く押して、メールボックスを確認する――今度、女子校の子達と合同カラオケパーティがあるよと剛に伝えた。
「次の日曜日だけど、一緒に行こうよ」
「行きたい」
「剛は、新しい彼女をつくっちゃおう」
「わかった、絶対行く。だって俺、悪くないもん」
「いいね。でも元カノ話はNGだからね。来てくれた女の子が嫌な気持ちになっちゃうからね」
――その次の日曜日。高校生だてらに男子五人、女子五人で行われた合コンは盛り上がる。皆、ハイテンションで歌う――楽しそうな空気で満ちていた。
カラオケも、恵と何度となく通った。互いの近所にカラオケボックスがあったからだ。はじめて恵と歌って遊んだ日は、調子に乗って踊りまで披露した――あのときは、「この後、私に何をする気だ!」と泣かれてしまった。そんな恵がいなくなった途端、このような遊び場にいることに、剛はさほど疑問はなかった。俺は悪くないという自己主張に支えられて、酔いしれる様に場の空気を楽しんだ。
背の高い女の子がいて、剛はいいなと思った。
剛は遠慮なく、誰に断りもなく隣に座って話しかけた。
「学校ではどうなの?」
「部活ではどうなの?」
「栗色の髪が長いね」
その子は相槌を打ったり、質問に答えたりしてくれたが、馴れ馴れしい剛にふと思ったのか、「園田君は彼女がいたの? いまいないでしょ? 振られたばっかりでしょ?」と心を抉る様に尋ねる。
「挙動でわかる」
そう言って鼻を鳴らすのだから、剛はギクッとした――見透かすような口調だった。
すると女子達は遠慮のない口調で囃し立てた。
「本当に? 園田君、別れたばっかりなの?」
「どんな子と付き合っていたの?」
見るに見かねた田中は、「ちょっと来て」と言って、剛をルームの外に連れ出す。
――音の静まったカラオケボックスの廊下で、田中は、「端っこの大人しい女子の隣に座って」とアドバイスをした。
田中は「あの背の高い子はダメ」と言う。
「悪い。いま痛感している」
「乗れてない子に丁寧に接して皆が楽しめるように」
「わかった……」
「じゃあ剛! 俺、トイレ行くから。頑張って彼女ゲットしろよ!」
「え? ああ……、瑞樹はありがとう」
田中は嬉しそうにトイレに歩いて行った。
――剛は、ルームの扉を開けて、中から流れる激しい音の固まりに溶け込む。
女子の一人がボソッと「男子二人で怪しい話をしている」と煽る。
剛は、テーブルに置いた自分のグラスを掴むと、移動し、スッと端に座った。ハッとした吐息が聞こえた――急に隣に座られて驚いたのだろうと想像がついた。肩にかかるくらいの髪が、微かに揺れた。
剛は、心を落ち着けて、
「歌わないの?」
と、気の利いた言葉の一つくらいと思ったから、話しかけた。
少しおどおどした様子で返事が返って来た。
「しばらく聞いていようかなと思って……」
長くて細く閉じたような目に、薄い肌色がよく見ると可愛かった。
――何の気なしに言われるがまま、しばらく皆の歌を聴いて過ごした。
田中の彼女がマイクを差し出して、
「凜も歌いなよ」
と促す。
「う、うん! 歌おうかな!」
隣の女の子は凜という。もっと、ぼそっと喋る子かと思った。声が思ったより通る。横顔に視線を送ると、凜は緊張しているのがよくわかる様子でリモコンを操作する。剛は、そのたどたどしい指の動きをただ見ていた。
「キンキキッズを歌おうかな」
「いいね。キンキは俺も好きだよ」
「うん」
リモコンの入力が終わり、やがて凜の番が来て、画面が変わる――凜はマイクを取って、歌唱する。楽曲は確か二年前に流行った歌だ。一人きりの心に雨が降るという歌詞を、一人で淡々と歌う。まるでお通夜のような、平坦な歌声。全く上手ではないが、不思議と聴いていられた。
剛は、歌詞が流れる画面を見ていた――恵と、時間をかけて関係を構築していたことを改めて実感した。即席で相席した凜との対比で、恵とは、あれでも一年かけて共に歩んだ仲だったと知る。
歌い終わった凜に、剛は、無難な話題が思いつかなかった。
「でも良い名前だね」
「なに? 私の名前? 広瀬凜だよ」
「そ。君の名前」
凜は嬉しそうに、「園田君は?」と尋ねる。
「剛だよ」
凜は、クスクスと笑った――剛君こそ、良い名前だねと言って、首を傾げながら。
剛は、思い出したように、
「俺も歌おう」
と言って、流行のロックバンドの楽曲を歌った。
剛は清々していた――女の子と遊びたいなら、たまにこうやって遊べばいいだろう。家に帰ったら勉強しよう。また去年の今頃のように勉強に勤しんで、数年後は少しでも偏差値の高い大学に行けるように努めれば人生も間違えない。それが、恵を忘れられるという意味で一番良い心の昇華だと思った。真面目腐ってそう思った。
ただ、そんな生真面目な心に凜が全く巣食わないということもなかった。凜もきっと友達に誘われてここに来た。様々に雑談をしたが、仕草が可愛らしかった。
――やがてフリータイムも終わる夕方に、田中は、今度はルーム内で堂々と「剛は連絡先を聞いたか?」と尋ねて来た。
「広瀬さんとしか、まともに話さなかっただろ。聞くだけ聞いたほうがいいよ」
剛は気恥ずかしかった――隣でこんな話をしていて、聞こえない素振りの凜に、「連絡先を教えてください」と切り出すのかと思うと。
剛は、ピッチを操作して、新規のメールを打った。メールの本文に「メールアドレスが知りたい」と打ち込んだ。宛先がわからず、送信ボタンを押せない代わりに、画面を凜に見せた。
凜はハッとした顔になって、剛の目をジッと見た――戸惑いながらも、まんざら嫌ではない凜の表情に、剛は期待が膨らんでいく――そして、次の言葉の意味がわからなかった。
「気にしないならいいよ」
剛は、てっきり音痴のことかと思った。音痴くらい平気だから、力強い言葉で「平気だ」と答えた。後先のことを考えず、人に言う言葉にしては力んだ。
凜は照れくさそうに「何のこと? 何が平気だと思ったの?」とさらに尋ねてきた。
剛は正直に「歌だよ」と答えた。
凜は笑った――嬉しそうに、剛のメールアドレスを教えて欲しいと言う。
剛が教えると、凜から電話番号の書いてあるメールが送られてきた。
「でも平気って言ったよね、見た目とか、平気なのね。嬉しいな」
剛は、首を傾げた――何か気にしていることがあるのだろうか。
「もしかして学校が違うことかな? 部活が忙しいとか!」
「いいや。教えてあげる。私には国籍がないの」
「え? 国籍がないなんてあるの?」
凜は顔を赤くして、照れくさそうにした――さては女の子なら誰でも構わないの? と不安そうに言う。
剛も顔がカッと赤くなった。「はい」とも「いいえ」とも言えない――誰でもいいわけないだろうと思いつつ、特段の理由があるわけでもない。
「朝鮮は、日本で国籍ではないの」
「朝鮮? 将軍様がテポドンを飛ばした国かな?」
「それは北朝鮮。北朝鮮は私の母国ではないよ。……地域はあっているけどね。コリアンネームがあるの。鄭賢琳(チョン・ヒョリン)ていうの」
「朝鮮半島の出身なのか? わかったよ! いつ日本に来たの?」
「わかってないよ。日本に来たのは私の祖父だから。在日三世っていうの。剛君は、本当に無頓着みたいだから、いいよ。また、会ったりするの?」
「また会おう! 自分のことをちゃんと話してくれる。ヒョリンって呼べばいいのか? ヒョリンとは打ち解けて話せそう。なんでも話し合いで解決できそう」
凜は、クスッと笑った。
「凜でいいよ」
「凜。ありがとう」
「前の彼女は剛君のことを振り回していたのかな。私はそんな子じゃないかな」
剛は、笑う凜が可愛いと思った――田中の計らいで二度目の彼女を難なくゲットしたのだった。
「うふふ。私、彼氏なんてはじめてだな。緊張する」
「凜。たくさん話そう。放課後は駅前で待ち合わせをして、週末は東京を散歩しよう」
剛は、外国籍と知って、なお興味が湧く。
剛はすっかり自信を回復した――俺は出来る男だと心の中で雄叫びを上げた。
――凜を駅で見送った後、「一瞬で彼女が出来た。俺はイイカンジなのかな?」と、男子会に行こうとする田中に言う。
田中は、「大切にしてあげてね。剛も男子会に来るの?」と言う。
「この気持ちを分かち合いたい。あのような素敵な子が瞬時に彼女となった」
「『彼女が出来て嬉しい』を卒業する良いきっかけだな」
田中は少し皮肉った笑みを浮かべる。
そして男子五人でファーストフード店に歩いて向かう途中、話題になった。
「でも朝鮮人だろ? 俺、アングラなウェブサイトでおかしな噂を沢山聞いたよ」
「剛は親から何も教わっていないな。部落とかの類いだろう在日って」
剛は「いいよ。気にするなよ。何も変わらない一人の人間だよ。可愛かったな。ヒョリンと聞いて、全部が可愛く思えてきた」と言って、満足そうにへらへらと笑った。